倫読 令和4年3月22日 席を譲られたことはありますか? ─「気遣い」の基本─
《続・こころのヒント(上)・74ページ~》
長男夫婦に誘われて車で温泉に出かけた友人夫妻は、麓の駐車場から秘湯で有名な宿までの1キロ近い山道を歩いたそうです。日頃から散歩を日課にしている2人は、この道のりも事前に知っていて、むしろ楽しみにしていたと言います。
気遣いの加減
ところが、車を降りて歩き始めるや、長男のお嫁さんは義父母のそばに寄り添って「ここに段差がありますからお気をつけて」「そこは滑りそうですから私におつかまりください」などと、こまやかに気遣ってくれたそうです。
友人の奥さんは、そのときのようすを思い浮かべながら、「彼女の気遣いはとてもうれしかったけれど、少し肩が凝りました」と言うのです。しかし、これが若い二男夫婦なら、両親の足どりなどにはかまわずに、自分たちのペースですたすたと先を行ったに違いない、とも言うのです。
第三者から見れば、長男のお嫁さんの気遣いは親思いのやさしさに見えますが、気遣われる側からすると、行き届きすぎた気遣いは気が疲れ、少し放っておいてほしいという気持ちになるのでしょう。しかし、だからといって友人夫妻は、二男夫婦のような自分たち本位がよいとも思っていないのです。
「ほどのよさって、ほんとうに難しいですねぇ」というのが、友人の奥さんの感慨でした。
そこで思い出したのが、その少し前、ある集まりで同席した、米寿の祝いをしたばかりというご婦人がふと漏らした言葉でした。「歳をとってまわりの方々に気遣われることが多くなると、昔の自分のことが思い出されて恥ずかしくなります」とおっしゃったのです。
そのときは、その意味するところを深く考えることはありませんでしたが、友人夫妻の話を聞いて、あのとき老婦人が言わんとしていたことに思い当たりました。自分が気遣われる身になってはじめて、気遣うことの難しさに気づいたと、その方は言いたかったのでしょう。
気遣いは心遣い
どんな気遣いも、気遣いをする側の思いだけが先走ると、相手の思いとの間に落差が生じます。もう1年ほども前のことですが、新聞に次のような投書が載っていて、なんとも切ない気持ちになったことを覚えています。それは「お餅を食べて新年を迎えたい」という見出しの投書で、投稿者は介護付き有料老人ホームに入居して1年目という高齢の女性でした。
その方がホームに入居してすぐの年末に、入居者や施設の職員総出で「餅つき大会」が催され、投稿者もお餅を丸める役にまわって楽しいひと時を過ごしたそうです。そして、「このお餅がいただけるのはいつだろう。今日かな、元旦のお雑煮かな」と楽しみにしていました。ところが年末年始を通して、お膳にお餅が上がることはなかった、というのです。
冒頭の友人夫妻の例もそうですが、高齢者に対する気遣いの多くは「危険を避けること」のようです。この投稿者も「お餅が出なかったのは、年寄りがお餅をのどに詰まらせてはいけないという配慮からだったのでしょう」と、施設側の気遣いに一応は納得しつつも、どこか腑に落ちない気持ちを拭えないでいたのです。
気遣いをされすぎてかえって気が疲れた友人夫妻も、餅がのどに詰まるといけないと気遣われて、楽しみにしていた餅を食べられなかった老婦人も、それが善意の気遣いであることは承知しているのです。それでも、どこかで気持ちのギャップがあるとすれば、その「気遣い」に“ちょっとした何か”が欠けていたからではないでしょうか。
昔から、日本人はあまり自分を主張しないといわれています。たしかに、私たちは日常的にあまり突っ込んだもの言いをせずに、互いに相手の気持ちを忖度して暮らしてきました。「相手を気遣う文化」といってもよいでしょう。しかし、自己中心の風潮が強まったり、せわしない世の中になるにしたがって、「気遣い」も独りよがりになったり、マニュアル化したりしてきたのではないでしょうか。その結果、相手の思いとの間にギャップが生じて、せっかくの気遣いが「余計なお世話」や「有難迷惑」になったりするのではないでしょうか。
本来、「気遣い」とは、相手のことを気遣うことです。自分の思いはひとまず置いて、まず、相手の気持ちを想像し、相手を思いやることが基本です。そうすることで「気遣い」は温かい「心遣い」になるのです。
要は、ちょっと立ち止まって相手の立場になって考えてみることではないでしょうか。
日本語のなかの気遣い
私たちは普段、何か気遣いをされそうになると、「どうぞお気遣いなく」とか、「おかまいなく」と言ったりします。それは、そんなことをしてもらっては申し訳ないという、自分の心の負担を軽くするための慣用句といってよいでしょう。しかし日本語には、そんな負担を気遣った絶妙な表現まであります。国語学者の金田一春彦さんはその著書のなかで、私たちが日常的に耳にする表現を例に「気遣いの日本語」について次のように述べています。
――日本の主婦が、書斎で仕事をしている亭主に呼びかける。
「お茶が入りました」
平凡な言葉であるが、なんと美しい言葉であるか。お茶は自然に入るものではない。亭主のためにお湯を沸かし、土瓶に茶葉を入れて湯を注ぎ、茶碗に注ぐ。そこにちょっとした菓子をそえてから呼びかけるのである。どこかの国なら、
「あなたのために私がお茶を入れたよ」
と言いそうなところである。そう言っては自分の行為を恩に着せる言い方になって、相手に不快な思いをさせる。そこでお茶が入ったのが自然現象のように、雨が降ってきたとか、小鳥が庭に来た、とかいうのと同じように述べるのである――( 『日本語』下、岩波新書)
ほかにも金田一さんは、「お風呂が沸きました」「ご飯ができました」なども同様に、相手を気遣ったやさしい表現だと記しています。
子どものころからこのような日本語に親しんできた私たち日本人は、知らぬ間に気遣いのプロになっているのかもしれません。ただ昨今は、ひと呼吸おいて物ごとをすることが少なくなり、気遣うことの判断も性急で、独りよがりになっているように感じます。
気遣い、気遣われる関係は、年齢や性別を問わず、さまざまな状況のもとで見られるものです。いずれの場合も気遣う側は「自分の思い」はちょっと横に置いて、相手の気持ちを少しだけ想像してみていただきたいのです。そうすれば案外ほどよい気遣い加減に落ち着いて、心からの「ありがとう」が返ってくるのではないでしょうか。
先日、外出していた妻が上機嫌で帰ってきました。聞けば、電車で女子高生に席を譲られたというのです。しかし、それが上機嫌の理由ではありません。降りるときに「ありがとう」と声をかけたら、笑顔と「お気をつけて」というひと言が返ってきた、その自然な心遣いがうれしかったというのでした。
(2017年4月号)
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