倫読 令和4年3月22日 席を譲られたことはありますか? ─「気遣い」の基本─

《続・こころのヒント(上)・74ページ~》

 

 

 

長男夫婦に誘われて車で温泉に出かけた友人夫妻は、麓の駐車場から秘湯ひとうで有名な宿までの1キロ近い山道を歩いたそうです。日頃から散歩を日課にしている2人は、この道のりも事前に知っていて、むしろ楽しみにしていたと言います。

 

 

気遣いの加減

 

ところが、車を降りて歩き始めるや、長男のお嫁さんは義父母のそばに寄り添って「ここに段差がありますからお気をつけて」「そこは滑りそうですから私におつかまりください」などと、こまやかに気遣ってくれたそうです。

友人の奥さんは、そのときのようすを思い浮かべながら、「彼女の気遣いはとてもうれしかったけれど、少し肩がりました」と言うのです。しかし、これが若い二男夫婦なら、両親の足どりなどにはかまわずに、自分たちのペースですたすたと先を行ったに違いない、とも言うのです。

第三者から見れば、長男のお嫁さんの気遣いは親思いのやさしさに見えますが、気遣われる側からすると、行き届きすぎた気遣いは気が疲れ、少し放っておいてほしいという気持ちになるのでしょう。しかし、だからといって友人夫妻は、二男夫婦のような自分たち本位がよいとも思っていないのです。
「ほどのよさって、ほんとうに難しいですねぇ」というのが、友人の奥さんの感慨でした。

そこで思い出したのが、その少し前、ある集まりで同席した、米寿べいじゅの祝いをしたばかりというご婦人がふと漏らした言葉でした。「歳をとってまわりの方々に気遣われることが多くなると、昔の自分のことが思い出されて恥ずかしくなります」とおっしゃったのです。

そのときは、その意味するところを深く考えることはありませんでしたが、友人夫妻の話を聞いて、あのとき老婦人が言わんとしていたことに思い当たりました。自分が気遣われる身になってはじめて、気遣うことの難しさに気づいたと、その方は言いたかったのでしょう。

 

気遣いは心遣い

 

どんな気遣いも、気遣いをする側の思いだけが先走ると、相手の思いとの間に落差が生じます。もう1年ほども前のことですが、新聞に次のような投書が載っていて、なんとも切ない気持ちになったことを覚えています。それは「お餅を食べて新年を迎えたい」という見出しの投書で、投稿者は介護付き有料老人ホームに入居して1年目という高齢の女性でした。

その方がホームに入居してすぐの年末に、入居者や施設の職員総出で「餅つき大会」が催され、投稿者もお餅を丸める役にまわって楽しいひと時を過ごしたそうです。そして、「このお餅がいただけるのはいつだろう。今日かな、元旦のお雑煮かな」と楽しみにしていました。ところが年末年始を通して、お膳にお餅が上がることはなかった、というのです。

冒頭の友人夫妻の例もそうですが、高齢者に対する気遣いの多くは「危険を避けること」のようです。この投稿者も「お餅が出なかったのは、年寄りがお餅をのどに詰まらせてはいけないという配慮からだったのでしょう」と、施設側の気遣いに一応は納得しつつも、どこかに落ちない気持ちをぬぐえないでいたのです。

気遣いをされすぎてかえって気が疲れた友人夫妻も、餅がのどに詰まるといけないと気遣われて、楽しみにしていた餅を食べられなかった老婦人も、それが善意の気遣いであることは承知しているのです。それでも、どこかで気持ちのギャップがあるとすれば、その「気遣い」に“ちょっとした何か”が欠けていたからではないでしょうか。

昔から、日本人はあまり自分を主張しないといわれています。たしかに、私たちは日常的にあまり突っ込んだもの言いをせずに、互いに相手の気持ちを忖度そんたくして暮らしてきました。「相手を気遣う文化」といってもよいでしょう。しかし、自己中心の風潮が強まったり、せわしない世の中になるにしたがって、「気遣い」もひとりよがりになったり、マニュアル化したりしてきたのではないでしょうか。その結果、相手の思いとの間にギャップが生じて、せっかくの気遣いが「余計なお世話」や「有難迷惑」になったりするのではないでしょうか。

本来、「気遣い」とは、相手のことを気遣うことです。自分の思いはひとまず置いて、まず、相手の気持ちを想像し、相手を思いやることが基本です。そうすることで「気遣い」は温かい「心遣い」になるのです。

要は、ちょっと立ち止まって相手の立場になって考えてみることではないでしょうか。

 

日本語のなかの気遣い

 

私たちは普段、何か気遣いをされそうになると、「どうぞお気遣いなく」とか、「おかまいなく」と言ったりします。それは、そんなことをしてもらっては申し訳ないという、自分の心の負担を軽くするための慣用句といってよいでしょう。しかし日本語には、そんな負担を気遣った絶妙な表現まであります。国語学者の金田一きんだいち春彦さんはその著書のなかで、私たちが日常的に耳にする表現を例に「気遣いの日本語」について次のように述べています。

――日本の主婦が、書斎で仕事をしている亭主に呼びかける。

「お茶が入りました」

平凡な言葉であるが、なんと美しい言葉であるか。お茶は自然に入るものではない。亭主のためにお湯を沸かし、土瓶に茶葉を入れて湯をぎ、茶わんに注ぐ。そこにちょっとした菓子をそえてから呼びかけるのである。どこかの国なら、

「あなたのために私がお茶を入れたよ」

と言いそうなところである。そう言っては自分の行為を恩に着せる言い方になって、相手に不快な思いをさせる。そこでお茶が入ったのが自然現象のように、雨が降ってきたとか、小鳥が庭に来た、とかいうのと同じように述べるのである――( 『日本語』下、岩波新書)

ほかにも金田一さんは、「お風呂が沸きました」「ご飯ができました」なども同様に、相手を気遣ったやさしい表現だと記しています。

子どものころからこのような日本語に親しんできた私たち日本人は、知らぬ間に気遣いのプロになっているのかもしれません。ただ昨今は、ひと呼吸おいて物ごとをすることが少なくなり、気遣うことの判断も性急で、独りよがりになっているように感じます。

気遣い、気遣われる関係は、年齢や性別を問わず、さまざまな状況のもとで見られるものです。いずれの場合も気遣う側は「自分の思い」はちょっと横に置いて、相手の気持ちを少しだけ想像してみていただきたいのです。そうすれば案外ほどよい気遣い加減に落ち着いて、心からの「ありがとう」が返ってくるのではないでしょうか。

先日、外出していた妻が上機嫌で帰ってきました。聞けば、電車で女子高生に席を譲られたというのです。しかし、それが上機嫌の理由ではありません。降りるときに「ありがとう」と声をかけたら、笑顔と「お気をつけて」というひと言が返ってきた、その自然な心遣いがうれしかったというのでした。

 

 

(2017年4月号)

 

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倫読 令和4年3月21日 家族でお花見に行きますか? ─いのちに対する感受性─

《続・こころのヒント(上)・67ページ~》

 

 

 

「吉野の花吹雪」という、なんとも華やかな言葉があります。桜の名所吉野のしも千本、なか千本、かみ千本、奥千本に自生する約3万本の山桜。その満開の花が谷から吹き上がる一陣の風に花弁を散らし、一斉に空と視界を埋めて舞う。それはよほど壮麗な光景に違いありません。

いつだったか、弘前ひろさきの城址で偶然、「花吹雪」に出合ったことがありますが、あの目くるめくような光景の、さらに規模の大きなものが「吉野の花吹雪」だとすれば、その荘厳さは、私の想像のほかでしょう。

 

 

なぜ日本人は桜の花に心かれるのか

 

桜の花が大好きだった西行さいぎょう法師も、この花吹雪を詠んでいます。

 

春風の 花をちらすと見る夢は さめても胸の さわぐなりけり

 

桜の花が風に散る夢、そんな夢を見ると、目が覚めてもまだ胸がざわついているというのです。一生を花の名所めぐりに費やしたような、この元北面ほくめんの武士でも、花吹雪には胸が鳴りやまないというのです。

「花は散りぎわ」といいます。俗に「桜は散りぎわのいさぎよさがいい」ともいいます。花吹雪の美しさを思えば、なるほどとうなずけそうにも思えます。しかし、日本人は桜の散るところが好きなのだと断定するとなると、これはちょっと違うと思います。

たしかに、古い軍歌の一節に「花は吉野に嵐吹く 大和男子と生まれなば 散兵線さんぺいせんの花と散れ」というのがありました。また、「咲いた花なら散るのは覚悟 みごと散りましょ 国のため」という有名な軍歌もあります。いずれも日本男児は桜の花のように潔く散ることを善しとしているのです。しかし、これは古人の思いとはほど遠いのではないかと思います。これらの歌詞は軍国主義時代の新解釈だったといってよいでしょう。

じつのところ、西行法師が花が散る夢を見て胸の動悸がおさまらなかったのは、うれしいからではありません。「花が散ってしまう、さあ大変だ」と思うと心配で、胸が騒いでいるのです。古代の日本では、よくもまあこれだけ、と思われるほどに桜の歌が詠まれていますが、そのなかでも多いのは、桜が散ってしまいはしないかと心配する歌なのです。なかには心配のあまり、もうやけくそとも思われるものまであります。

 

世の中に 絶えて桜のなかりせば 春のこころは のどけからまし

 

漂泊のうちに生きた日本人の理想の男性像といわれる在原業平ありわらのなりひらの歌です。世の中に桜などというものがあるから、散りはしないかと心配で落ち着かないのだ、いっそ桜なんてくなったほうがいいと業平はいうのです。それほどまでに、当時の人々は花が散ることを心配したのです。このように、桜の歌はほとんど心配だらけなのです。なぜこれほどまでに花が散ることを心配したのか、いろいろな解釈はあるでしょうが、やはり短い間に滅びてしまう「花のいのち」に対する哀惜あいせきの情が、その心配の中心にはあったと思います。

 

かぎりあるいのちの輝きをいとおしむ

 

これは、日本の古典に触れるたびに思うことですが、常に「いのち」が移ろうことに対する哀惜の情が主題になっています。これはよくいわれる「無常観」とは違います。いのちあるもの、形あるものはやがては滅びる、だからはかない、というのではないのです。それが姿を変じ、やがては滅びるものであるからこそ、今現在の「いのち」がかぎりなく輝いて見え、いとおしく思うのです。とりわけ桜の花は、「花のいのち」の短さによって、満開の「花のいのち」の素晴らしさが、いっそう強く感じられたのです。

こうした「移ろういのち」に対する深い思いは、文楽や歌舞伎など庶民の芸能でも常に中心的な主題になってきました。悲劇に終わるに決まっている恋、しとげてもせんない義理だて、どんな話も終わりあるものの瞬間瞬間の輝きをいとおしむ物語です。しかも、「いのち」を哀惜する思いは、人間のいのちばかりではなく、動植物にまで及んでいきます。

能には植物の芭蕉ばしょうの精を主人公にしたものがあり、柳の精やきつねが主人公になる浄瑠璃もあります。日本人にとっては、植物も動物もまた、「かぎりあるいのちを生きるもの」として等しく大切であり、そのいのちの輝きは深く哀惜されるべきものだったのです。られる柳に胸を痛め、両手に赤子を抱いて口にくわえた筆で遺書を書く狐に、涙するのが日本人だったのです。

私たちの祖先の、自然のいのちに対するこの感情は、現代の合理主義、実用主義とは無縁なものです。現代の論理に従えば、桜が散るのを惜しむなら、バイオ技術で散らない花を作ればいい、ただし、できるだけコストを抑えて、ということになるでしょう。

 

いのちへの感受性の衰弱……いじめもまた

 

じつは、このいのちの輝きに鈍感になってしまったところに、現代の混迷があると私は思います。いのちに対する豊かな感受性を失ったからこそ、山は崩され樹は伐られ、川は汚水にまみれ、魚や動物は滅びて、そのいのちをかえりみる人さえありません。間断なく子を叱る親があり、いじめる子があり、非人間的な論理を振りかざす社会があります。かくして人のいのちも自然のいのちも、不断の迫害を受けているのです。

もちろん、ここでいう「いのち」とは、医学的な意味での「生命」ではありません。桜の花のつぼみが膨らみ、花弁が開き、咲きそろい、山風に花びらを散らす、その一瞬一瞬の輝きや美しさを「いのち」というのです。人についていうならば、生きてある一瞬一瞬の喜びを「いのち」ととらえるのです。

たとえば、赤ちゃんです。笑う、手足を動かす、指をしゃぶる、あくびをする、声を出す、誰もがその一挙一動に微笑ほほえみます。その思いが「移ろういのち」を哀惜するということなのです。かつて、日本人はこの赤ちゃんの瞬間瞬間をいとおしむ気持ちを、花にも樹木にも動物にも向けてきたのです。自分にも他人にも、同じ哀惜を感得かんとくできたのです。

そんな美風がなぜ断ち切られてしまったのでしょう。いのちに対するあのやさしく鋭敏な感覚をなぜ忘れてしまったのでしょう。現代が競争社会だからだ、と言う人がいます。それは正しくもあり、間違いでもあります。競争社会ということにとらわれて、やさしい心を見失ったからだ、というべきでしょう。

つまり、いのちをいとおしむ心は、競争社会においても邪魔になるものではないということです。どんな社会でも、やさしい心をもつ人は、結局は慕われ、尊敬され、真の意味で社会的な成功をおさめるはずです。反対に、競争社会だからといって、他者へのいたわりを忘れ、いのちへのやさしさをなくした人は、必ずそのつけを払わされることになるでしょう。

今年もまた桜の季節がやってきます。古人と同じように、家族で花見に出かける人も多いでしょう。しかし、花がたちまち散り果てるように、花見の団欒だんらんも束の間です。そう感じたとき、花明かりに照り映える家族一人ひとりの「いのち」は、「花のいのち」と同様に大事にいとおしまれるべきものだと気づくのです。

その瞬間も、次の瞬間も、そして明日も。そんな、家族の「いのち」をいとおしめる人は、他者の「いのち」を、さらに生きとし生けるものすべての「いのち」を思いやることができる人だと、私は思います。

 

 

(1995年4月号)

 

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倫読 令和4年3月19日 ボッチャンを見たことがありますか? ─コウノトリが棲めない社会─

《続・こころのヒント(上)・60ページ~》

 

 

 

ポーランドから帰ってきた知人が面白い土産みやげ話をしてくれました。「ポーランドの田舎にはボッチャンがたくさんいる」「世界中のボッチャンがやって来る」というのです。さて、このボッチャンとは何でしょう。

 

ボッチャンを敬愛する国

 

もちろん、夏目漱石の『坊つちやん』ではありません。甘やかされて育った世間知らずの若者のことでもありません。ポーランド語で、コウノトリのことを「ボッチャン」というのだそうです(注・厳密にいえば、ヨーロッパやアフリカ北部にいるコウノトリは、東アジアのコウノトリと同種ではなく、その近縁種で、くちばしの赤いシュバシコウであると、事典にありました)。

ポーランドの人たちは、お国自慢の一つとして、必ずこのボッチャンの多さを誇るというのです。土産物にもボッチャンの彫物がたくさんあるといいます。ではなぜ、それほどコウノトリに肩入れするのでしょうか。

コウノトリは『聖書』にも出てくる古くから人々に知られた鳥です。ヨーロッパでは、アフリカの北部から渡ってくるコウノトリは「春の使者」とも称されていました。春と共にやって来たコウノトリは、羽毛が擦り切れるまで働いて、高い木や煙突の上に巣を作り、子どもを育てます。

コウノトリの巣は地上10メートル前後の高所にありますから、夫婦でかいがいしく子どもの世話をするコウノトリのようすがよく見えます。ボッチャンが愛されてきた所以ゆえんです。

北ヨーロッパでは、赤ちゃんはコウノトリが運んでくるのだと子どもに教えるそうですが、それもコウノトリの愛情深い子育てからの連想でしょう。

子育てを終え、やがて親鳥が老いると、子は、親鳥が自分を世話してくれた期間だけ、親鳥の世話をするという言い伝えもあるそうです。つまり、ボッチャンは夫婦の信頼、親子の情愛などの象徴として敬愛され、大切に保護されてきたのです。

ボッチャンは一度作った巣を忘れずに、毎年同じ巣に戻ってくるといわれています。そのため、ボッチャンが巣をかけた煙突はポーランドでは使用禁止です。必要ならば新しい煙突を作らなければならないのです。

そんな不便があっても、ポーランドの人々はボッチャンの飛来を喜び、「ここには世界中のボッチャンが集まって来る」と自慢します。この土地こそ夫婦親子の愛情を最も大切にしているところだから、というのでしょう。

 

日本にコウノトリがいなくなった

 

では、日本ではコウノトリはどう見られていたのでしょう。面白いことに、ポーランドの場合とよく似ています。

日本では昔から、コウノトリはその姿から、鶴の一種だと誤解されていました。尺八などの音曲に「鶴の巣籠すごもり」と呼ばれる名曲がありますが、これはコウノトリの親鳥が子を育てて別れるまでの深い情愛をうたったものです。

また、「焼け野のきぎす、夜の鶴」というたとえの鶴もコウノトリです。巣がある野を焼かれると雉子きじは身の危険を忘れて子のいる巣に戻り、霜が降りる夜のコウノトリは自分の翼で子をおおって寒さから守るということから、子を思う親の情の深さの譬えです。

江戸時代には、「松上しょうじょうの鶴」と題された絵もたくさん描かれています。二羽のコウノトリが松の木の上の巣に止まっている、決まりもののおめでたい構図です。この時代まで、松などの木の上で子育てに励むコウノトリのつがいの姿があちこちで日常的に見られていたことがわかります。コウノトリは日本でも、夫婦や親子の愛情や仲のよさの譬えにされる鳥だったのです。

しかし日本のコウノトリは、明治以降の近代化とともに急激に減少して、1971(昭和46)年には、兵庫県の日本海寄り、城崎きのさき温泉に近い豊岡市にただ一羽を残すだけとなり、その死とともに野生のコウノトリは絶滅してしまったのです。

夫婦や親子の愛情を象徴していたコウノトリが絶滅した1971年は、環境庁が発足した年でもあります。同じ年、富山地裁ではイタイイタイ病の、新潟地裁では阿賀野あがの川水銀中毒訴訟の、いずれも原告側が勝訴しています。その一方で、成田空港公団が第一次強制執行を行ない、100万人を超える人をだましたネズミ講、天下一家の会が摘発されています。

つまり、なりふりかまわぬ経済成長が、公害や金銭至上主義となって、人心に荒廃をもたらし始めた年、またそれに対する反省が芽生え始めた年に、日本に営巣えいそうするコウノトリはいなくなったのです。


子育てが金銭問題になってしまった

 

日本にコウノトリが見られなくなってから、すでに40年近い歳月が流れました。列島改造やバブル景気の狂乱もありましたが、環境問題への関心も高まりました。公害対策の技術は飛躍的に進歩して、世界の最先端レベルに達しているといわれます。しかし、コウノトリが巣をかけることはありません。なぜでしょうか。

すみずみまで整備された湖沼こしょうや河川、度重なった農薬散布や乱開発によって、コウノトリの餌を極端に減少させ、巣となる雑木林を伐採し、あるいは放置し、荒廃させてしまったからです。ひとたび失われた自然は、人間の力ではもはや取り戻すことができないのです。

しかし、コウノトリが来ない理由はそれだけではないでしょう。感傷的で非科学的だといわれそうですが、私たち日本人がコウノトリに象徴されていた夫婦や親子の愛情を尊重することを忘れてしまったからではないか、と私は思うのです。ポーランドにたくさんボッチャンがやって来るのは、ただ餌の問題だけではなく、誰もがコウノトリを愛し、待ち望んでいるからだと思われてならないのです。

自然が破壊され、コウノトリがいなくなり、経済だけが豊かになるにしたがって、少子化の問題が深刻なものになってきました。結婚しない、結婚しても子どもはつくらない、子どもをつくっても一人だけ、という人が増えたからです。その理由も明らかです。「収入が少ないから」「子どもがいると働けないから」「経済的に豊かな生活をしたいから」です。

つまり日本人の多くが、子育てとは「金銭の問題」だと考えるようになったのです。なんと恥ずかしいことかと、私は思います。子育ては「愛情の問題」で、お金や収入の問題ではないのです。

夫婦や親子の関係を金銭で考えるような社会になど、コウノトリが来るはずがないと私は思うのです。

しかし、希望がないわけではありません。日本のコウノトリの最後の生息地となった豊岡市では、コウノトリのさと公園を中心に、長年、コウノトリの人工飼育に挑戦し、20年前には繁殖にも成功。いまでは100羽を超えるコウノトリを飼育するようになりました。また、2005年(平成17年)には、野生化に向けて放鳥も始まりました。

しかし、コウノトリが野生で生きていくためには、餌となるカエルやドジョウなどが生息できる汚染されていない河川や田んぼ、巣作りに適した山林など、豊かな自然が必要です。

コウノトリの郷公園を中心とする地域では、そうした環境整備を進めるとともに、周辺の農民も農薬散布を控え、無農薬農業に切り換えるなどの協力をしているといいます。コウノトリが生息できる環境は、人間にとっても住みよい環境であるという意識を地域で共有しているのでしょう。

いつの日か、コウノトリが但馬たじまの空に、そして日本各地の空に舞い、人もコウノトリのように夫婦や親子の愛情を大切にする。そんな社会にしたいものです。

 

 

(2009年4月号)

 

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倫読 令和4年3月18日 あなたは千代大海が好きですか? ─「信義」の強さ─

《続・こころのヒント(上)・53ページ~》

 

 

 

親孝行がしたくて相撲取りになり、大関にまでなった千代大海という関取がいます。シコ名の千代大海とは、永久に栄える大きな海、じつに大きく強くめでたい名前です。もれ聞くところの人柄も、名前にふさわしく豪快です。

 

 

なぜ千代大海は人気があるのか?

 

千代大海はいわゆる不良少年あがりです。ワルどものたばね﹅﹅﹅だったそうですが、「セコイことは絶対するな」とよく言っていたと、雑誌の対談で語っています。

「カツアゲとか、ひったくりとか、自分の名前を売るために喧嘩けんかを仕掛けるとか、つまらんコトするヤツが多いんです。そういうことは絶対するなってよく言いました」

つまり、自分のための悪事をするな、それはセコイことだというのです。しかし、「信義」を守るため、身内をかばうため、仲間の危難を救うためには非常のこともしたようです。

一方、本宮もとみやひろという劇画作家の『サラリーマン金太郎』という作品が大ヒットして、テレビドラマにもなりました。こちらも、かつて暴走族2万人をたばねていた若者が、ひょんなことからサラリーマンとなり、個人主義と無責任と事なかれ主義に満ちた会社社会に挑戦するドラマです。

この主人公の行動原理も「信義」です。人と人が交わりを結ぶのは、互いの相手に対するまことによってであると思っています。だから彼は、功利的な人間関係というものがわかりません。また、社会に対しても、まことを尽くします。だから彼には、社会に対する無責任ということがまるで理解できません。

たしかに、たとえ暴れ者とはいえ、2万人をたばね得る者は、人に信、集団に義、私をむなしくした包容力がなければ務まりません。

そんな彼には、出世主義、個人主義のサラリーマン社会がさっぱりわかりません。たとえば、不祥事を起こした社員を「切れ」という社長に従うことができません。社長は親、社員は子。子をかばうことができない親は親ではない。だからお前は社長ではない、というのが金太郎の理屈です。社員をかばい、守ったうえで、社会的な責任は社員に代わって自分がとる、それが金太郎が考える社長というものなのです。

千代大海と金太郎とはよく似ています。千代大海自身が、お母さんが泣いて土下座どげざしたおかげで、少年院へ行かずにすんだ、と語っています。親は子を、ギリギリの切所せっしょでは、我が身を捨ててかばうものだと彼らは考えています。親は子をかばい、子に代わって責任をとるのが親だというのです。その代わり、千代大海の母親は「人様に迷惑をかけるな。弱い者をイジメるな。ゆすり、たかり、人を刺すな」と厳しく教えたというのです。

また、千代大海のじつの父親は小さいころに亡くなり、いまは義理の父親ですが、その義理の父親は彼にこんな説教をしたといいます。

「おまえは男だろうが。女(母親)を泣かすようなことをしたら絶対許さん」

ここにも一家をたばねる者の「信」と「義」が生きています。夫は妻をかばう。家庭内のもめごとは自分の責任でさばく。そして一家の誰かが犯した罪の責任は自分が負うという明快な自覚があります。なんでも個人の自由だ、個人の責任だ、という態度は、そこには微塵みじんもありません。

「父ありて我が強さあり 母ありて我が優しさあり 父母の姿いつも忘られず 我が心の支えなり」

千代大海は、こう記した色紙を大分の実家に送ったそうですが、なんと素直な、まごころに満ちた言葉でしょう。親の子に対する信こそ、子の親に対する信を育てるのだと思います。

 

この社会には「信義」が決定的に欠けている

 

ここ数年報道される事件を思い出してみると、千代大海や金太郎が人気のあるわけがよくわかります。

おぞましい事件のどれもこれもが、信義を欠いた社会の様相を象徴しているからです。人々はいま、かつてはあった信義という人間社会におけるごく基本的なつながりを、切ないほどに求めているのではないでしょうか。

数千人を殺傷するという未曾有みぞうの事件を起こした教団の教祖は、現金を抱えて隠し部屋に潜み、我が身一つが逃れようとしました。弟子たちを見捨て、もちろん、社会的責任など思ってもみませんでした。

数多い少年犯罪においても、親が身をもって子をかばい、代わりに自分が社会的責任をとろうとした事例は久しく聞きません。

それはそうでありましょう。もし、彼らの家庭が千代大海の家庭のようであったとすれば、事件にいたる前に犯罪の芽は摘まれていたはずなのです。

官庁の不祥事では、トカゲの尻尾切りが常套じょうとう手段になっています。経営不振の会社では、社員をリストラして路頭に迷わせながら、経営陣は責任をとろうといたしません。子を犠牲にして、親が我が身の安泰を図っているようなものです。

イジメの問題もまたしかりです。先生と生徒の間にまごころがあり、親と子のような関係がありさえすれば、イジメのような信義に外れたことを許すはずはないでしょう。たとえイジメがあったとしても、先生は身をていして生徒を守りきるはずです。イジメが横行するということは、先生と生徒の間に信がないということです。

行政が住民の幸福よりも組織防衛を優先したり、政治家が社会の安寧あんねいよりも党利や個人的な利得を先に立てるのも、親が子を犠牲にするのと同じ本末転倒の振る舞いです。そうした彼らに誰が信を寄せるでしょうか。

『サラリーマン金太郎』の原作者ならずとも、この世の中には信義が決定的に欠けていると、いきどおりを覚えずにはいられません。

 

真の落ちこぼれは誰だ?

 

孔子はただ4つのことを教えたと『論語』には書いてあります。文・行・忠・信、つまり、学問・実践・誠実・信義の4つです。しかし、「学問」とは何を学ぶのでしょうか。また「実践」とは何を実践するのでしょう。さらに、何に対して「誠実」であれというのでしょうか。4つといいつつも、じつは根本は「信義」であったと私には思われます。

信義まごころ抜きの「学問」は、結局個人的な利得を先に立てた、倫理には遠い単なる実学になってしまいます。

信義まごころなしの「実践」は、しばしば他者に非常な迷惑を及ぼします。

信義まごころのない「誠実」とは、愚かさでしかありません。

千代大海にせよ、金太郎にせよ、彼らは「学問」においてのみ見れば、落ちこぼれだといえるかもしれません。しかし、彼らは「信義」においてしゅうにすぐれていたのです。最も大切な信義があったからこそ、世の支持を得たのです。

人は誰でも、生まれながらにもっているまことを学んで磨きあげ、信をもって実践に努め、自分の信に対して誠実に身を律してこそ、大成することができるのです。

また、『論語』には、孔子と子貢しこうの、政治の要諦ようていについての対話があります。

子貢「政治について教えてください」

孔子「国防と経済の充実。そして社会に信義を行き渡らせることですね」

子貢「その三つに優先順位はありますか」

孔子「やむを得ないのなら、まず国防を、次いで豊かさを放棄します。だが、社会から信義だけは外せません」

知識偏重の今日、私たちは、知育では落ちこぼれたかもしれない千代大海や金太郎に、人間にとっていちばん大切なものは「信」、つまり、「まこと」であり、「まごころ」だということを教えられているのです。

 

 

(1999年5月号)

 

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倫読 令和4年3月17日 環境にいいことしてますか? ─秒の世界から環境を考える─

《続・こころのヒント(上)・46ページ~》

 

 

 

今年(2008年)も桜は早く咲いてしまうのでしょうか。地球温暖化の影響で桜の開花が極端に早まったとして最初に話題になったのは2002年のこと。以来、桜の季節が近づくと、全国のお花見幹事たちは頭を悩ますことになりました。

 

わかっちゃいるけど、やめられないワケは?

 

二酸化炭素などの温室効果ガスの排出量増加による温暖化の危険が一般に知られるようになってから久しくなります。世界気象機関と国連環境計画によって、科学的調査を進める国連組織IPCC(気候変動に関する政府間パネル)が設立されたのが1988年。その2年後、1990年には最初の報告が行なわれ、世界に警告を発しました。

しかしいまだに、世界の二酸化炭素排出量の四分の一近くを占めるアメリカは経済発展を阻害するとして削減には消極的。アメリカに迫る排出量大国、中国も先進国の責任だとしてわれ関せず。1997年に京都議定書をまとめあげた日本も、その後は排出量の削減どころか増加の一途を辿たどるという体たらくです。

この鈍感さはどうしたことでしょう。

その答えを見るような、面白い話が新聞に載っていました。時は昨年暮れの午前3時過ぎ、NHK総合テレビの深夜の番組で、その事件は起こったといいます。地球の温暖化問題について、女性の解説委員が国民の深夜型のライフスタイルを問題視して、コンビニの営業時間を短縮すべきだと発言したのが発端でした。

するとすぐに、「NHKが率先して、こういう深夜放送を休止してはどうでしょうか。 群馬 男 50代」というテロップが流れたのです。その後は、司会者による苦しい釈明やら反論が続いたというのです。思わず笑ってしまいましたが、考えてみると、この群馬の男性も深夜3時にテレビを楽しんで、二酸化炭素の排出に加担していたのです。

しかもその点では、この面白い事件を新聞に紹介した評論家も同罪です。深夜にコンビニに行く人も、それを批判するテレビの論者たちも、それを笑う視聴者も、それを新聞に紹介した評論家も、ここに登場する誰もが深夜型のライフスタイルに染まっているところが、「目くそ鼻くそ」のたとえを地でいくようで、なんともおかしかったのです。

いまや誰もが温暖化の危機を言い、経済優先の自国主義や金銭至上の利己主義を批判しますが、「だから自分はどうする」という視点だけが、スッポリと抜け落ちているのが特徴です。

それはなぜでしょうか。世界は、人に厳しく自分に甘い利己的な人間ばかりなのでしょうか。あるいは、なんとかなるんじゃないかと思っている楽天的でものぐさな人間ばかりなのでしょうか。それとも、温暖化は問題だと頭ではわかっていても、そのもたらす結果についての実感をもてないほど、想像力に欠けた人間ばかりなのでしょうか。

 

一秒の世界

 

『1秒の世界』という本をご存じでしょうか。東大教授の山本良一りょういちさんが責任編集をしているビジュアルな統計の本です。環境問題から大自然の驚異まで60項目にわたって、「たった一秒間」に世界規模で何が起こっているのかを列記したものです。

一昨年(2006年)から、テレビ局がこの統計をもとに制作した特別番組を放送していますから、ご存じの方も多いと思いますが、以下、内容の一部を簡単にご紹介しておきます。たとえば、一秒間に排出される世界の二酸化炭素は体育館32棟分、39万立方メートルだといいます。一分間ならその60倍、一時間なら3,600倍、一日なら86,400倍、一年では3,154万倍で、体育館10億棟分にもなります。

この二酸化炭素を増大させる石油などの化石燃料は、一秒間に252トンも消費されています。問題の二酸化炭素が猛烈な勢いで増大している一方で、人間に欠かせない酸素は一秒間に710トン減少しています。これは140万人の人間が一日に必要とする量に匹敵するといいます。

二酸化炭素を増やすのは人間ですが、酸素を増やすのは二酸化炭素を取り込んで光合成をする植物です。しかし、森林は一秒間にテニスコート20面分、5,100平方メートルが消失しています。

この森林破壊を押しとどめようという努力によって、一秒間にテニスコート5面分が植林されていますから、差し引き、森林の減少は一秒間に15面分ということになります。一年間では、ほぼ5億面分が消失している勘定です。

砂漠化は、中国だけにかぎっても、一秒間に畳48枚分、78平方メートルの速度で進行しています。一日で200万坪以上が砂漠になっているのです。

酸素が減り、耕作地が減っているのに、人口は一秒間に2.4人増え、0.3人が餓死し、汚染された水や食料で48人の幼児が下痢になっていると、『1秒の世界』は訴えます。

どう考えても、この先に待っているのは、大気汚染と水や食料の不足という、基本的な「不足」です。そして、その「不足」が深刻化すれば、少ない耕地や森林、水や食料をめぐる紛争や戦争が頻発することになりかねません。

この本でも、一秒間に世界で320万円の軍事費が使われ、平和維持のために国連が1万円を投じていると記されています。戦争を推進する側と回避させようとする側のこの開きは、本格的な「不足」の時代を迎えれば、一挙に拡大するに違いありません。

同書は電卓片手に読み進めることをおすすめします。地球環境の変化が実感をもって迫ってくるはずです。

 

気づいたら、まず実行を

 

私たちは誰もが、自分と家族の豊かで安全な暮らしを求めています。アメリカ人も中国人もインド人も、アフリカの人々も海に沈みつつある珊瑚礁の島の人々も、いまを生きる人はみな同じことを望み、それを実現すべく必死に働いているのです。しかし、その結果が行き着く先は、確実な「不足」と人類の滅亡なのです。

それなのに人類は、このに及んでもまだ、ただひたすら金銭的な豊かさを追い求め、自分と子どもたちの未来を断ち切ることになる営為に身をやつしているのです。

どうしたら、この破滅の構造から抜け出すことができるでしょうか。私たちの子や孫を、これから生まれ出る生命を、この絶望的な未来から救うことができるのでしょうか。

明らかなことは、私たちがいま直面しているのは、人間にはどうすることもできない天災ではないということです。あくまでも人為的に引き起こされた人災なのです。

とすれば、「人が起こしたことなら、人はそれを止めることもできるはずだ」と信じるしかないと思います。信じ、気づいた過ちをただちに是正し、正しいと思うことを実行する。一人ひとりが生活を正す。それ以外の解決策はないと、私は思います。

個人の力は小さくとも、やがてはそれが世界中に行き渡る日がくると信じて行動すること。それが大切なのだろうと、私は思います。

なぜなら、世界中の人々が自分と家族の安全で豊かな未来を求めて生きているからです。現在の生活が自分の家族の未来を断ち切ることに直結していると知れば、必ず、その生活を改めるはずだからです。

それがいつになるのか、まだ間に合うのかはわかりません。しかし私たちは、あきらめることも絶望することもありません。私たち人間にできるのは、より善い明日を信じて、いま正しいと思えることに全力を尽くすことだけです。もし、それで間に合わなかったとしても、正しく生きたという満足感だけはあるはずです。

『1秒の世界』の山本さんは後書きで書いています。この本のなかで取り上げた60の事例を考えることで「……地球の環境変化の現状を把握し、持続可能な社会の実現のために献身的に努力することへの契機にして欲しい」と。

 

 

(2008年4月号)

 

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倫読 令和4年3月16日 あなたを変えた本はありますか? ─感動が人生を変える─

《続・こころのヒント(上)・39ページ~》

 

 

 

「キッチンドリンカー」 という言葉があります。アルコール依存症の主婦のことです。
近年、男性の飲酒率や大酒飲みは減っているのに、女性の飲酒率やキッチンドリンカーは増えているといいます。女性の社会進出にともなって、女性もアルコールに親しむようになってきたことや、女性ホルモンのエストロゲンが肝臓のアルコール分解機能を低下させるため、男性に比べてアルコールへの適応力が低く、依存症になりやすいのだそうです。

男性と女性では、アルコール依存症になる時期や原因に大きな違いがあるといいます。一般に男性の場合は、飲酒の習慣が長期にわたるため、依存症になった時期を特定しにくく、原因も絞りきれません。それに対して女性の場合は、その原因の多くが夫や姑との確執や、子育ての苦労、子どもの親離れの寂しさなど、人生の転機にかぎられるのだそうです。

とくに多いのが、子育ても一段落した40歳代の主婦だといいます。忙しさで自分のことを考えるゆとりもなかった時期は終わり、ひと息ついたときそばに誰もいない。働き盛りの夫は家に寝に帰るだけ。そのむなしさを埋めてくれるのがアルコールだったというわけです。

 

 

「私はアルコール依存症でした」

 

アルコール依存症は「否認の病」ともいわれます。第1段階の否認は、「私は依存症ではない」という否認。 第2段階は「自分はお酒さえ飲まなければ、なんの問題もない、悪いのは私ではない」という否認です。

あるご婦人と人生の転機について、話をしていたときのことです。じつは、10年前の自分はアルコール依存症だったと、意外なことを話し出されました。

子育ての苦労と姑との気持ちの行き違い、そのストレスに加えて、夫婦間の会話もなくなったことが、自分をアルコールに向かわせた要因だったと思うと、彼女は言います。子どもたちが寝静まったあと、床に就く前に飲み始めた一杯のお酒が、日が経つにつれて量も増え、やがて何をおいても欠かせない精神安定剤になっていった、というのです。

やがて、家族にも気づかれ、たしなめられて孤立していきます。「自分の人生はなぜこんなに思い通りにいかないのか」と心が苛立いらだち、そんな心をアルコールだけがいやしてくれる。その繰り返しでした。そんな自分に罪悪感と自己嫌悪がつのって、またアルコールに走る。それでも「自分はアルコール依存症などではない。アルコールさえ飲まなければ、自分にはなんの問題もない」と思い続けていたそうです。

「人間って、自分に都合の悪いことは、なかなか認められないものなのですね」と、彼女は明るく笑うのでした。

 

「しらくも君」の変身

 

そんな彼女に転機が訪れたのは、子どもの本棚の隅っこにあった本の背に目が留まったときでした。『感動は心の扉をひらく』 ……。無造作にページを開いて読み始めたのは、「しらくも君の運命を変えたものは?」という、 動物を描いた児童文学で知られるむく鳩十はとじゅうさんの実体験をもとにした作品でした。

著者の椋さんは、長野県の南アルプスのふもと、伊那いなだにの出身です。旧制中学を卒業後は、郷里に帰ることもなかったのですが、事情があって30年ぶりに帰省したところ、村に住む小学校時代の同級生たちが同窓会を開いてくれることになります。

出席してくれた仲間は、すっかり風貌が変わっていても、少し話せば「君は誰々だったね」とすぐに思い出します。しかし、立ち居振る舞いが堂々とした一人の男性については、杯を交わしても誰なのかまったく見当がつきません。その男性こそ、クラスの嫌われ者だった「しらくも君」だったのです。「しらくも」とは頭にできる田虫たむしのような皮膚病のことです。そのオデキがたくさんできると白い粉がふいて頭が白い雲のように見えるところからついた俗称です。

当時伊那谷では養蚕ようさんが盛んで、畑にかいこふんをまいていました。その糞にハエが集まり、そのハエが教室にも飛んできて「しらくも君」のオデキに止まる。追い払うと飛び立ち際にオデキの白い粉をまき散らすので、誰も彼には近づきません。そのうえ、成績も6年間ずっとビリで先生も手を焼いていた。それが子どものころの「しらくも君」でした。その彼が、いまはこの地域で一、
二を争うすぐれた農業指導者になっていたのです。

そのことを知った椋さんは、「君がこんな立派になるとは思わなかったなあ」 と言うと、しらくも君は「みんなそう言うよ」と笑って答えます。椋さんは何かきっかけがあったのか尋ねると、「あった」と言ってその経緯を話してくれました。

しらくも君は、自分が学校で嫌われ、辛い思いをしたので、子どもには田畑を売ってでも勉強の機会を与えてやりたいと思っていたのですが、残念ながら、子どもの成績もかんばしくありません。

その子どもが高校2年の夏休みに3冊の本を買ってきます。しらくも君は「この子もようやく勉強する気になった」と喜びますが、いつまで経っても読もうとしません。これはきっと親が本を読まないから子どもも読まないのだと思い至って、しらくも君は自ら読むことにします。しかし、読書の習慣がなかった彼は、はじめは何度も投げ出しそうになりますが、途中から内容に感動し、結局、三度も読み返したそうです。

椋さんが何という本か聞くと、それはロマン・ロランの長編小説『ジャン・クリストフ』でした。聴覚を失っても絶望せず、素晴らしい名曲を作っていくベートーベンの努力をヒントに書かれた作品です。

しらくも君は、作曲家クリストフの苦悩を自分と重ね合わせ、クリストフが挫折を乗り越えていく姿に比べて、自分の不甲斐ふがいなさを思い知ります。生まれてはじめての本との出合いが、しらくも君の目を開かせたのです。そして、自分としっかり向き合うことで、自分にできること、自分が努力すべきことも見えてきたのです。

それがしらくも君にとっては農業でした。その農業を改めて勉強しようと決意します。しかし、農業を勉強するといっても、いままで勉強をしたことがないので、わからないことばかりです。ときには役場に行って教えを請いながら、農業の専門書を何冊も読破していきます。こうして彼は農業の専門家になり、
伊那谷でも一、 二の農業の指導員になっていったのでした。

 

ありのままの自分を受けれたとき

 

しらくも君の物語を一気に読んで、彼女は感動します。しらくも君がクリストフに感動したように、彼女はしらくも君に感動したと言います。負の状況から逃げ出したいとばかり思っていた自分、そんな弱い自分をありのままに受け容れて、自分と向き合う勇気が湧いてきた。そして、しらくも君と同じように自分も変わろうと強く思ったというのです。彼女の断酒を後押ししてくれたのは、自助グループの支援と家族でした。そのことは感謝してもしきれないと、彼女はちょっと涙ぐむのでした。

いつも前向きで明るい女性。社会活動に積極的にかかわっている彼女にも、そんな人生の一時期があったなどとは想像もできない話でした。でも、そんな過去があったからこその、いまの素敵な彼女なのかもしれません。

 

 

(2014年4月号)

 

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倫読 令和4年3月15日 あなたの宝物は何ですか? ─心のダイヤモンド─

《続・こころのヒント(上)・31ページ~》

 

 

 

「ダイヤモンド富士」と呼ばれる現象をご存じでしょうか。太陽が富士山の頂上にかかったとき、まるでダイヤモンドのように輝きを放つ現象です。富士山の西側では、明け方の太陽が昇ってくるときに、東側では夕方の太陽が沈んでいくときに、燦然さんぜんと輝く、そのダイヤモンドを眺望できます。

日の出や日没の太陽の位置は日々変化していきますから、一つの地点からダイヤモンド富士が見えるのは、年に数日ほど。ただし、それが見えるかどうかは、もちろんそのときのお天気次第です。

山梨県の山中湖や静岡県の田貫たぬき湖では、ダイヤモンド富士が見られる時期になると、その一瞬のきらめきをとらえようと、多くのカメラマンが集まることで知られています。富士山頂に輝くダイヤモンドと、湖面に映る逆さ富士とダイヤモンド、それは夢のような光景です。

 

引き継いだ光景

 

中学の国語の教科書に「遠い山脈」と題した短い物語が載っています。杉みき子さんの『小さな町の風景』のなかの一篇です。

舞台は山の中腹にある坂の上の小さな広場、国境くにざかいの山脈を遠く望む崖の上です。主人公の新聞配達の少年は、坂を登ってここで山を見ながらひと休みするのが日課です。ある日少年は、そこで遠い山を眺めている一人の老人に出会いました。時々、ここで見かける顔です。

転びかけた老人。思わず手を貸す少年。

老人はふと思いついたように言います。

「あした、ちょっと早く来て、付き合ってもらえないかな。見せたいものがあるんだよ」

何のことかわからず、ためらったものの、翌朝、少年が少し早めに坂の上の広場に来てみると、すでに老人は来ていて、ついてくるようにうながすと、背後の山の斜面をどんどん登っていきます。あとを追う少年。茂った木々の間を抜けると、やがて大きな岩陰に辿たどり着きました。

「さあ、ここだ。ここから、向こうをのぞいてごらん」

言われるままに、岩陰のわずかな隙間から指し示される方向を見た少年は、突然、まばゆい白光に目を射られて立ちすくみます。遠い山脈の山と山との間から、真っ白な雪を頂いた一つの峰が、いま、昇ろうとする朝日を受けて、美しく輝いていたのです。

老人は語り始めます。自分も少年と同じ年頃のときに新聞配達をしていたこと。嫌なことがあって、仕事を辞めてしまおうかと思いながらここへ登って、偶然、あの山を見つけたこと。そのとたん、仕事を辞めるか辞めないかなど、もうどうでもよくなった。あんな美しいものが世の中にあって、それを自分だけが知っている。そのことがうれしく、誇らしく、自信までもが湧いてきたこと……。そして老人は言うのでした。

「私も歳をとった。このごろしきりに、あの山のことを誰かに引き継がなくては、死ねないような気がしてきてね」

老人と少年は、いつまでも朝日に輝く遠い山を見つめていました。

明くる朝、そこにはもう、老人の姿はありませんでした。少年は昨日の場所に駆け登り、あの白い神のような山が浮かび上がる光景に見とれながら、老人が一生かけて心に温め続けてきたものを、自分がいま、はっきりと受け継いだことを感じたのです。

これが、この物語のあらすじです。少年が受け継いだものは、まさしく「心のダイヤモンド」だったのです。

 

アカガシを尊敬しています

 

ある日、知人から一枚の絵手紙が届きました。そこには幹がねじれ、曲がりくねった枝を四方に広げた老木が、おどるようなタッチで描かれていました。それは、まるで年老いた魔法使いを思わせる不思議な巨木でした。

そのことが心のどこかに残っていたのでしょう。次に彼に会ったとき、思わず、「あの木はどういう木なのですか」と聞いていました。

「アカガシです。故郷の……」、そう言いながら、彼は鞄から小さなスケッチブックを取り出して見せてくれました。パラパラとページをめくると、最初から最後まで、そのアカガシがさまざまな角度から描かれています。枝や幹や根のデッサンもあります。彼はいま、この木を油絵で100号の大きなカンバスに描いているところだというのです。

「それはまあ、ずいぶんご執心ですねえ」

「ええ、尊敬していますから……

「尊敬、ですか?」

「そう、とても長く生きていますからね。天然記念物にも指定されていませんから、たしかな樹齢は不明です。でも、少なくとも5、600年はあるでしょう。幹周りは太いところでおよそ6.6メートルです」

彼はなんだか得意そうです。

故郷の谷筋の道を入って行くと、細い山道の先にこの木はそびえているというのです。おそらく彼は、そこへ通いつめているのでしょう。彼が木を見つめ、枝に触れ、幹に耳を当てている姿が浮かんできます。それにしても、なぜ?

私の追求に、彼は少し恥ずかしそうに秘密を打ち明けてくれました。

もう学生時代から、何か悩みがあったり、人生の岐路に立ったりしたときには、必ず、この木に相談しに行っていた。この木に向き合っていると、なぜか安心する。楽しくなって、励まされたり、いい知恵をもらったりもするというのです。

彼にとってこの巨木は、やはりかけがえのない「心のダイヤモンド」だったのです。

 

心のなかの宝物

 

「にっぽん縦断こころ旅」というテレビ番組をご覧になったことがありますか。視聴者から寄せられた便りをもとに、その「心の風景」を訪ねて、俳優の火野正平ひのしょうへいさんが自転車で旅をするという番組です。目的の場所に辿り着くと、その風景を見ながら火野さんが手紙を読むのです。

それは懐かしい風景だったり、苦難のときに生きる力を与えてくれた風景だったり、旅で出合った思い出の風景だったりするのですが、そのほとんどがなぜか人工の景色ではなく、自然の風景なのです。ある手紙には、「その風景を眺めていると、どんなに辛いことも、ささいなことに思えてくる。自分の小ささに気づかされる」という意味の一節がありました。

人は自然の懐に抱かれたとき、安らぎ、喜びを感じ、勇気づけられるのでしょう。なぜなら、人は自然の一部であり、自然によって生かされている存在だからです。

「心の風景」のもう一つの特徴は、その多くが故郷の風景だったり、人生の一時期を過ごした土地の風景だったりすることです。そして、その理由も容易に推測できます。

よく、静岡県人は静岡側から見る富士山が、山梨県人は山梨側から見る富士山こそが、最も美しいと思っているといわれます。富士山だけではありません。たとえば、津軽つがる富士と呼ばれる岩木山いわきさんは、弘前ひろさきから見るのと、五所川原ごしょがわらから見るのとでは、まるで山の形が異なります。しかし、どちらの住人も、自分のところから見る岩木山こそが、ほんとうの岩木山であり、最高の岩木山だと思っているに違いないのです。

人は美しい風景を見れば、誰もがうっとりしたり、感激したりするでしょう。しかし、それだけです。幾度となく眺め続けることによってはじめて、その風景は深く心に刻まれ、輝きを増して、かけがえのない「心の風景」になっていくのです。自分だけの宝物になるのです。

その宝物は、「“ナントカ”鑑定団」の「お宝」のように、金銭に換算してもらって一喜一憂するような、そんなさもしいものではありません。金銭などには替えられない自分だけの宝物、人生を心豊かにしてくれるもの、それこそが「心のダイヤモンド」なのです。

「心のダイヤモンド」をもっているかどうか、それは人生の形を変えてしまうほどの大事おおごとなのです。

人は誰でも心のダイヤモンドの原石をもっているはずです。それは風景や自然物とはかぎりません。一体の仏像であったり、一枚の絵であることもあるでしょう。その原石は繰り返し眺め、磨き続けることで輝きを増し、やがて、かけがえのない心のダイヤモンドになっていくのです。

 

 

(2012年4月号)

 

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倫読 令和4年3月14日 微笑みを忘れていませんか? ─上機嫌の連鎖─

《続・こころのヒント(上)・24ページ~》

 

 

 

「微笑みの国」と聞いて、どの国を思い浮かべますか?おそらく多くの人が東南アジアのタイを思い浮かべるのではないでしょうか。

タイの観光局の宣伝やさまざまなガイドブックなどの影響もあるのでしょう。誰が言い始めたにせよ、「微笑みの国タイ」というキャッチフレーズは、なかなかチャーミングです。てのひらを合わせてやさしく微笑んでくれる人々や、古い仏教遺跡に点在する仏たちの微笑みを想像するだけで、心の安らぎを求める旅に出たくなってしまいます。

しかし昔は、日本人が西洋の人々から「微笑みの国の人」と呼ばれていたことをご存じでしょうか。もう、若い人たちは知らないかもしれません。それほど日本人は微笑みを忘れて久しくなります。

 

「不可解」な微笑み

 

私たちは一般に、微笑みをやさしさや穏やかさの表れと考えています。しかし、かつての西洋人にとって日本人の微笑みは、それだけではなく、「何を考えているのかわからない」という不可解さの象徴でもありました。

一方、日本人の微笑みを不可解で不気味なものとする人々に、真っ向から反論した西洋人もいました。1890(明治23)年に来日した、ギリシャ生まれのイギリス人文学者ラフカディオ・ハーン(小泉こいずみ八雲やくも)です。

ハーンは、「日本人の微笑」というエッセイのなかで、当時の西洋人が日本人の微笑みに対していかに無理解であったかを、いくつかの例を挙げて記しています。

たとえば、横浜に住むある英国婦人が語ったという日本人のお手伝いさんの話は、次のようなものでした。

その家のお手伝いさんが婦人のところにやってきて、何か楽しいことでもあるように、微笑みを浮かべながら言いました。「主人が亡くなったので、これから葬式に参ります。どうぞしばらくお暇をください」と。もちろん婦人は了承しました。すると、お手伝いさんは夜には戻ってきて、おこつの入ったつぼを見せ、「これが私の主人です」と言って、また笑ったというのです。

英国婦人は「こんなひどい人間がいるのを聞いたことがありますか」と、ハーンに語ったそうです。

ハーンは、そのお手伝いさんの振る舞いが冷酷無情であるどころか、非常に慎み深く礼儀正しいものであることを知っていました。しかし、そのような説明をかの英国婦人にしても、おそらく理解できなかったに違いないと書いています。

 

礼儀としての笑み

 

では、ラフカディオ・ハーンは日本人の微笑みをどのように考えていたのでしょうか。

ハーンによれば、日本でいちばん気持ちのよい顔とされているのは、微笑んでいる顔です。その気持ちのよい顔を、両親はじめ、先生や友人など、自分を気にかけてくれる人たちにいつも示すことが、日本人の世に処する道である。そればかりか、世間に向かって絶えず明るい表情を投げかけ、知らない人に対しても、できるだけ気持ちのよい印象を与えようとする気配りは、慎み深さであり、やさしさであるというのです。

だから心は張り裂けんばかりでも、健気けなげに微笑みを保とうとする。そうしなければ心配をかけるからです。

ハーンはこれを一種の礼儀作法ととらえ、例のお手伝いさんが笑みを浮かべながら夫の死を告げたのも、「礼儀正しさの極みの自己否定に至った笑い」と考えました。つまり、彼女は英国婦人に対しても無言でこう語ったのだというのです。

「奥様は不幸なできごととお考えでしょうが、どうかお気にかけないでください。やむを得ずこうしたことを申し上げてしまい、失礼しました。お許しください」と。

ハーンはまた、そのお手伝いさんが自らすすんで骨壺を見せたという英国婦人の話はいささか信じがたく、おそらく「その女主人の気まぐれな好奇心」に応えざるを得なかったのだろう、と推測しています。

そして、辛い義務を果たさなければならないときや、辛いことを口にせざるを得ないとき、その辛さを相手に知らせないように、笑みを浮かべるのだというのです。

 

上機嫌の花を咲かせる

 

東日本大震災のあと、被害に遭った多くの人の姿がテレビに映し出されました。親しい人を失い、避難所生活を余儀なくされ、心のなかは悲しみや不安でいっぱいであるはずなのに、その表情は穏やかで、時には微笑みさえ浮かべていました。

こらえきれずに涙をこぼし、両手で顔をおおった人も、しばらくすると「取り乱してすみません」と周囲の人を気遣い、静かな微笑みで感情の波立ちを鎮めるのでした。東北の人々の身体のなかには、ハーンが称えた精神がいまも宿っているのでしょう。

日本人の微笑みは、「ホンネを隠すタテマエ」だといわれることもあります。そうした要素がないとはいえません。しかし、ホンネをぶつけ合うだけでは、人間関係は殺伐さつばつとしたものになってしまいます。微笑みというタテマエは、そうした事態を避けるために、長い歳月をかけてつちかわれてきた知恵でもあるのです。

フランスの哲学者アランは著書『幸福論』のなかで、不機嫌は伝染するといっています。自分の不機嫌によって他人も不機嫌になり、他人の不機嫌によって自分もいっそう不機嫌になるのです。不機嫌こそがホンネであったとしても、それをあらわにしたのでは、不機嫌の連鎖を呼び起こすだけでしょう。

不機嫌の対極にある上機嫌も、また伝染するものです。アランはこの上機嫌を交換し合うことこそが、人の心を明るくし、豊かにするといいます。「これこそ贈り合うことによって増えていく宝である。この宝を通りにも、電車の中にも、新聞の売店にもいたらよい。一粒たりとも無駄にはなるまい。それの蒔かれた至るところで、上機嫌は芽を出し、花が咲く」と。そして、その上機嫌を導くものが、人々の微笑みなのです。

上機嫌とは、決して他者におもねることではありません。批判すべきことは、笑ってすませてはなりません。しっかりと批判しなければならないでしょう。しかし、それが怒りに対する怒りだったり、悪口に対する悪口だったりすれば、マイナスの無限連鎖に陥ってしまいます。大切なのは相手を打ち負かすことではなく、相手も自分も幸せになる道を求めることです。

アランが提案するように、道の傍らに微笑みの種を蒔き、上機嫌の花を咲かせる実験をして、見事に成功したという友人がいます。自宅近くの遊歩道を散歩することを日課にしている彼は、まず、すれ違う人すべてに笑顔で会釈することから始めました。会釈を交わすようになったら「おはよう」と声をかける。顔馴染なじみになったら一言二言、話をする。それを繰り返すうちに、その遊歩道では、誰もが笑顔で挨拶をすることが習わしになったというのです。

日本中が再びそんな「微笑みの国」になったら、どんなに素晴らしいことでしょう。

 

(2013年3月号)

 

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倫読 令和4年3月12日 ショッピングは好きですか? ─暮らしのなかに自分の基準をもつ─

《続・こころのヒント(上)・17ページ~》

 

 

 

このところ中国からの観光客の「爆買い」が話題になっています。日本の商品は品質が良いからとか、あるいは有名ブランドの偽物がなく信用できるからというのが理由です。彼らの買い物は出発間際まで続き、その量のあまりの多さに出国手続きが手間取って、航空機の出発時間に遅れが出たなどというニュースも報じられています。

思えば、かつては日本人も団体で海外に出かけてブランド品を買いあさり、話題になったことがありました。

 

世界でいちばん貧しい大統領

 

2年前(2014年)、一冊の絵本が日本で出版されて大きな反響を呼びました。各メディアにも取り上げられたので、ご存じの方も多いと思います。

それは、人口約300万人という南アメリカの小国ウルグアイのムヒカ大統領のスピーチをやさしく紹介した絵本で、タイトルは『世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ』(汐文社)です。ムヒカさんは2015年3月に任期を終えて大統領を退任しましたが、この絵本で取り上げられているスピーチは、2012年にリオデジャネイロで開かれた地球の環境と開発をテーマにした国際会議(国連持続可能な開発会議)でのものです。

ちなみに、「世界でいちばん貧しい大統領」という呼称は、大統領としての給与のほとんどを慈善事業に寄付し、「大統領官邸に住んで、たくさんの職員を働かせるくらいなら、その経費を教育のために使いたい」と、官邸ではなく郊外の質素な農場に住み、ポンコツ車に乗って、平均的なウルグアイ人と同じ程度の生活費で暮らしているという、彼のライフスタイルから名づけられたものでした。

スピーチのなかで大統領は、私たちは消費と発展を際限なく求め続ける社会をつくってきたが、いまや、その仕組みを使いこなすことができなくなっている。むしろ、その仕組みによって私たちは危機に陥っているといいます。つまり私たちは自らもたらした残酷な競争で成り立っている消費主義社会に振り回されている、というのです。

私たちの危機とは、地球環境の危機などではなく、私たちのこれまでの生き方こそが危機の根源なのだと、ムヒカさんは指摘します。見直すべきは、私たちがつくった社会モデルであり、私たちの生活スタイルだというのです。ムヒカさんのスピーチのなかで最も印象的なキーポイントが「貧乏な人とは、少ししか持たない人のことではなく、無限の欲があり、どれだけあっても満足しない人のことだ」というくだりです。

では、私たち日本人はどうなのでしょう。改めて問われれば、「お金やモノが豊かでも幸せとはいえない」と誰もが言います。しかし本音のところでは、いまも「多く所有すること=豊か=幸せ」という観念から抜け出せないでいるのではないでしょうか。モノの多さに辟易へきえきしながらも、モノにとらわれた暮らしから抜け出せないでいるのではないでしょうか。

 

自分の流儀で暮らす

 

女性にとってモノの代表といえば、着るものでしょう。その着物道楽をいましめる言葉に「羅綺らき千箱せんばこ一暖いちだんに過ぎず」という故事があります。羅は薄絹、綺は綾織りの絹のことで、そんな高価な衣類が千もの箱にぎっしり詰まっていても、身を温めるのに必要なのは、そのうちの一枚にすぎないというのです。

たしかに、いくら衣装持ちでもスーツもコートも着られるのは一度に一枚だけ。そんなことは百も承知なのに、ついあれこれ買ってしまう。それはなぜでしょう。あれも欲しいし、これも欲しいという欲望もあるでしょう。買い物をするのが楽しいということもあるでしょう。しかし、見方を変えれば、「自分の基準をもっていないからだ」といえるのではないでしょうか。

若いころ、はじめて自分のスーツを作ろうとしていた私に、社会人の先輩が、イギリスの紳士はまったく同じ生地とデザインで自分の身に合った洋服を複数着作り、それを何年も愛用していると教えてくれました。

事情を知らない人から見れば、「あの人はいつも同じスーツを着ている。ほかに服を持っていないのだろうか」などということになりそうです。しかし、自分のスタイルをきちんともち、着心地のよさを第一に考えている人にとっては、そのやり方はすこぶる合理的で、さすが自尊心の高い紳士の国だと感心したことを覚えています。

つい先日、知人から『フランス人は10着しか服を持たない』という本が、女子大生の間で話題になっていると教えられました。そのタイトルを聞いたとき、先のイギリス紳士の流儀に通じるものを感じるとともに、そのような暮らし方が求められる時代になってきたのだと、改めて思ったものでした。

この本の著者は「買い物に買い物を重ね、服でパンパンになったクローゼットを持つことに慣れたアメリカ人」の若い女性です。本は、その彼女がパリに留学していた折、ホームステイ先のフランス人の家庭で見聞きし、実感したことをまとめたものだといいます。

タイトルからその内容を想像すると、同じ服を二日続けて着たくないと次から次に買いまくるアメリカ人女性に対して、フランス人女性は気に入った良質な服なら何度でも繰り返し着る。そんなモノに対する両者の考え方の違いが見えてきます。

自分の暮らし方をはっきりと認識して、それに基づいて身のまわりのモノを厳選していく。そんな自分だけの基準をもっているかどうかで、私たちのモノの持ち方も、その数量も変わってくるのだと思います。

 

ほんとうに残したいもの

 

アメリカ人女性の本が日本で売れている一方、「片づけコンサルタント」の近藤麻理恵さんの著書『人生がときめく片づけの魔法』がアメリカで「ニューヨーク・タイムズ」のベストセラー・リストに入るほどの人気だそうです。その近藤さんにちなんで「Kondo」という新しい流行語が生まれ、「片づける、整理する」という意味の動詞として「How
to
Kondo」というような使われ方をしているのだとか。過剰にモノを所有する暮らしから脱したいという人々の強い思いが、「Kondo」という造語にもよく表れているように思います。

しかし、いらないものは捨て、あるいは片づけてすっきりするだけでは、どこか心もとなく感じます。これからの私たちの暮らしで大切なのは、そこから一歩進んで「ほんとうに残したいものとは何か」を考えることでしょう。

そのことを心に置いて、改めて身のまわりを見直すと、これは「役立つ、役立たない」「古い、新しい」「かわいい、ダサイ」などという一般的な尺度だけではない、自分だけのブレない基準がきっと見えてくると思うのです。

もはや、地球環境の問題も、拡大し続ける貧富の格差の問題も、目をそむけ先送りしていられる時期は過ぎました。何を大切にして生きるのか。どんなライフスタイルを選択するのか。どんな社会を目指すのか。いまこそ、私たちの未来の形をつくる最後の時ではないでしょうか。

 

(2016年3月号)

 

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倫読 令和4年3月10日 子どもにお手伝いをさせていますか? ─人間の値打ちって何だろう─

《続・こころのヒント(上)・9ページ~》

 

 

 

外国へ行って目につくのは、子どもたちが家業や家事の手伝いをする姿です。いわゆる発展途上国といわれる国々では、はたして大人の手伝いなのか、それとも幼い子ども自身が一人前なのかと疑われるほど、仕事に精を出す子どもたちが目立ちます。貧しい国だけではありません。ヨーロッパやアメリカでも、働く子どもの姿はよく見かけます。

では、日本の子どもはどうでしょう。先頃、文部省(現・文部科学省)が発表した国際比較調査によれば、親の手伝いをする子どもはアメリカのおよそ五分の一、子ども全体の一割にも達しないという寂しさでした。たしかに、いまの日本では働く子どもの姿を見かけなくなりました。

 

いいことずくめだった「お手伝い」

 

子どもが親の仕事を手伝うのは、かつての日本では当たり前のことでした。家業を手伝うための欠席は、学校も認めていましたし、地方によっては、農繁期の手伝いに合わせて、夏休みなどの期間が按配あんばいされていたりしました。地域ぐるみで、子どものお手伝いを大切なものだと考えていたのです。家業を助けて働いていた子どもたちの健気けなげな姿が、私には懐かしく思い出されます。

私たちの身のまわりから、働く子どもの姿が消えてしまったのはいつのころからだったでしょうか。日本がしだいに豊かになってきたころに、大方の人たちが、働く子どもはかわいそうだと思い始めたように思います。子どもが働くことは将来の可能性を摘み取ることだと、非難されるようにもなりました。労働の強制は子どもの人権の侵害だという考え方です。

私もその通りだと思います。だから1989年には、「子どもの権利条約」が国連で採択されたのです。「すべての子どもは経済的搾取から保護される権利と、有害労働につくことから保護される権利をもっている」という主旨でした。

しかし、家業や家事の手伝いと有害労働とはまったく別ものです。

私自身の記憶では、お手伝いというものは大変楽しいことでした。両親と一緒に働くうれしさ。自分の働きを親が認めてくれていると思う誇らしさ。親の代わりに、よその家にお使いに行くときの緊張感と、一人前に扱われるうれしさ。身体を使ったあとの心地よさ。一家そろって、その日の仕事を話題にする親密で陽気な団欒だんらん。両親の日々の仕事に対する尊敬と感謝。世間の厳しさや人の親切を知る喜び……。私には、お手伝いはいいことずくめだったように思います。

 

お手伝いはなぜ「お手伝い」?

 

お手伝いは、なぜ「手で伝える」「手から伝える」と書き表すのでしょう。両親の手助けをしながら、手から手へ何か大事なものを伝えられたり、受け継いだりするからではないのでしょうか。

たとえば、母親の料理を手伝うことで、その家の味を伝えられ、受け継ぐのです。家族に寄せる母の愛情を手渡されるのです。父親の仕事を手伝えば、仕事に対する父の情熱や喜びが伝わってくるのです。

お手伝いの素晴らしさは、家族の一員であるという自覚が生まれ、世間というものを知り、社会の一員としての責任とはどういうことかもわかってくることです。

とすれば、お手伝いは子どもの可能性を摘み取るどころか、社会の一員として生きていくための大切なことを、いくつも手渡しで教えてくれていたのです。

しかし、この前の東京オリンピック(1964年)のころを境にして、日本はどんどん豊かになって、子どもの働きに頼る必要がなくなりました。多くの親たちは、お手伝いより勉強していい学校へ入ってほしいと、思うようになっていきました。

一方、そのころから、非行やいじめ、不登校など、子どもの問題が顕著になり始め、学級崩壊に至る一連の流れが始まったように思います。いつまでも大人になりきれない未熟な社会人の出現も、やはり働く子どもがいなくなってあとに生まれた現象でした。

子どもたちは、大人の仕事を手伝うことをやめたために、社会から完全に切り離され、子どもたちだけの世界に孤立してしまったのではないでしょうか。

 

社会から切り離された子どもたちは

 

かつて、農繁期に農業を手伝わされていた子どもたちは、一粒の米を収穫するのに、どれほどの丹精が必要なのかを知っていました。その汗の結晶である米を買う人があり、それによって自分たちの生活が成り立っていることも、体験的に知っていました。

世の中とは、人と人とのつながりや協力で動いていくもので、その間にはいろいろな苦労や喜びがあることを、うすうすとではあれ、わかっていたように思います。

しかし、社会から切り離された子どもたちは、そうした実社会の事情というものを、理解することができません。学校という閉ざされた空間で、同学年の子どもたちと、ただ熾烈しれつな競争をさせられるだけなのです。それも、「学力」というたった一つの単純な物差しで競争させられているのです。

親も学校も、「人間の値打ち」をテストの点数だけでしか評価しようとしなくなりました。思いやりや素直さ、誠実さや勇気、生きる知恵や力などでは、認めてもらえないのです。もちろん、よく家の役に立っているとか、親の代わりに交渉ごとができるとか、地域である役割を果たしているなどということは、その機会さえ与えられないのですから問題にもなりません。

こうして、道徳面や情緒の面、あるいは対人関係で問題を抱えた、学力の世界でしか通用しない「優秀な」若者たちが、大量に生まれることになったのです。

昨年(1999年)の7月には、機長を刺殺して500余人の乗客乗員の生命を危うくした全日空機のハイジャック事件がありました。9月には、池袋と下関で無差別殺傷事件が相つぎました。いずれの犯人も進学校や難関国立大に進んだ優等生で、一様に対人関係が苦手で、社会が自分たちを疎外しているという被害者意識にとりつかれていました。もちろん、社会が彼らを疎外したのではありません。学力だけが通用する世界のなかにいて、社会を知らなかっただけなのです。

日本の社会は学歴社会だといわれますが、官庁などはいざ知らず、社会のほとんどは、実力勝負の世界です。学歴が高いことで有利なスタートを切ることはできても、人間的に問題があったり、不道徳であったり、人とのコミュニケーションがうまくとれないのでは、遠からず挫折せざるを得ないのは当たり前です。

子どもの権利も勉強も結構ですが、何もかもから目隠しをして、ひ弱でキレやすい世間知らずの優等生ばかりを育てて、日本は一体どうしようというのでしょうか。

私は、子どもたちにはどんどんお手伝いをさせるべきだと思います。働かせるべきだと思います。機会さえ与えてやれば、子どもたちは喜んで、親や地域の人々の仕事を手伝うに違いないのです。なにしろ彼らは、ただ学力だけで評価される現状に、息がつまりそうになっているはずだからです。

親の仕事を手伝って親から認められる。地域の役に立って世間の人から一人前扱いされる。子どもにとって、これ以上の喜びはないはずです。たぶん学校の勉強にも、よい影響を与えるのではないかと思います。

ただし、もし両親が自分の仕事に誇りや喜びをもっていない場合、たとえば、親が家事などという、つまらない仕事をやむなくしていると思っているような場合には、子どもにその手伝いをさせるべきではないでしょう。自分が嫌いだから子どもにやらせるというのでは、それこそ子どもの人権侵害です。

私たちはもう一度、「人間の値打ちとは何か」を考え直してみるときがきているようです。

 

(2000年5月号)

 

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